例えば、ふわふわした生クリームの上に目の映えるような赤をしている苺がのったショートケーキとか、甘酸っぱいような癖のある味のチーズとさくさくしたタルトがマッチしているチーズタルトとか、甘くて幸せの味がするものが私は嫌い。 まるで、それがあるだけで幸せだと錯覚してしまうから。
朝、私が紅茶を飲んでいる間に、千種が家を出て行く。 いつものことだ。 その後、私は何も考えずにニュースを見て、ふーん、と大きな独り言をつぶやいてカップを口元に運ぶ。 どこかで他人が事故にあっても残念ながら私には限りなく無関係だ。 例えその時、胸を痛めたとしてもその感情は砂ように跡形も無くさらさら飛んでいく。 そうして、私は誰もいない家を出て、おそらく千種が歩いていっただろう方向の真逆へと歩き出す。 千種がいるんじゃないかと毎回一度振り向いてしまうけど、彼がその期待に応えてくれたことはない。
一人で虚しさを感じてそれでもまた私は、明日もその次も後ろを振り返ってしまう。
ああ、もうそろそろ占いの時間だ。 占いなんて少しも信じてないけど、最下位だったなら少し落ち込むし、1位だったなら少し嬉しい。 もしかしたら、運勢に気分を上下されて、この占いの結果に日々躍らされているだけかもしれない。 それでも、見なければ一日落ち着かないのもこれまた事実。 無念だ。
ちなみに、この頃に千種は家を出る。 あれ、さっきも言ったっけか。
紅茶淹れなきゃ。悲しくも自分のためだけに。 今日は一体、何人の人の名前が報道されるんだろう。 不幸な人と幸福な人の名前が同じ人の口から、それも数分差で全国に届けられるなんて、ひどい皮肉。
スリッパがフローリングを擦る音が聞こえる。 お弁当を取りに来るんだろうな、それにしてもやる気のない足音だよね。
「…お茶、淹れといて」
「だ、誰の…?」
「本気で言ってないよね」
呆れた様にため息をついて、眼鏡の奥で目を細めると「俺の」とひらがな一文字ずつ切り離してゆっくりと私に伝える。 千種が一人称を言わないのが悪いんだ。 だから私が溜息吐かれるなんておかしい。
いや、今はそんなこと言ってる場合じゃないか。千種の分の紅茶を淹れる? 何で、なんの為に? 淹れたら飲まなきゃいけないんだよ、わかってる? なんて聞いたらきっとまた溜息をついて呆れられるだろうから言わないけど、現実感がまるで皆無。 今淹れてる千種の分を見ていても、これは誰の紅茶だっけ。と呟いてしまいそう。
「占い、始まるよ」
「あ、うん」
「待ってる」
気だるそうな声で気だるそうに歩いていった千種は、何の迷いもなくリビングに向かっていった。 風邪でも引いたのだろうか。 昨日の夜はあんな元気だったのに。 何言ってるんだろう私。 落ち着こう。 それにしても、千種って私が毎朝占い見てたの知ってたんだ。 嬉しい、なんて思うのはおかしいかな。
大きく深呼吸をしていつもとは違う二つそろったお揃いのカップをおぼんにのせると、リビングから占い開始の音楽が聞こえた。 本当ならテレビの音がこんな所まで聞こえるはずもないんだけど。 つまりこれは、千種が私を急がせるべく音量を大きくしているってこと。 自分で呼ばないところが余りに千種らしくて、笑ってしまった。
くつくつと喉の奥で笑いながらリビングに入るとリモコンを持った千種が音量を小さくしていた。 ありがとう。と言いたかったけれど、なんだかとても照れくさく感じて言えなかった。
「遅かったね」
「おいしい紅茶は時間がかかるの」
ふぅん。 と興味なんて微塵もないだろう占いを頬杖をついて見ている千種は、いつもと同じ千種だけど、この時間に千種はいつもはいないんだから、やっぱりいつもと違う千種で、ああ、愛しい。
「今日はまだ行かないんだね」
嬉しさと戸惑いとその他大勢の感情が入り混じった声は、おそらく、嬉々が8割を占めていた。 そのおかげで少し甘ったるく聞こえる自分の声が嫌になった。
「昨日、ケーキもらったから…と食べろって」
ひょいと上に持ち上げたケーキの箱には名の知れた高級店の名前。 箱を開ければおいしそうな、(いや絶対においしいだろうけど)ショートケーキが二つ。 輝かしく箱に入っていた。甘いものは決して好きじゃないけど、私だって女の子。紅茶と高級店のケーキを優雅に楽しむお姫様ごっこしたい。 それに、今日の朝はいつもと何もかもが違うから、甘いものを食べるのも悪くない気がして。
「フォークと皿」 「何で私が持ってこなきゃいけないのよ」 「食べたくないの?」 「…食べる」 「じゃあフォークと皿」 「…うぅ」 「食べないの?」 「…食べます」
こんな無意味な言い合いを繰り返している中で、千種がさっきから時計を見ていることに気がついてしまう。 こんな時ばかり秒針は早く進む。
本当ならもう、千種はここにいないんだ。 いつもなら、寂しいなんて思わないのに。 「行ってきます」「いってらっしゃい」だけのやりとりで行ってしまう千種に、今みたいに、―置いていかないで―なんて直接思ったこと無かったのに。 それはずっと一人になってから感じる寂しさだったのに。 こうやっていつもと違う何か、愛しさを感じると、もっと、もっと、って期待が募って、寂しささえもそれに比例して募っていく。
ただ、純粋に好きだと言えたらいいのに。ありがとう、も言えない私がそんなこと言えるはずもないのにね。
聞きたいことはたくさんある。でも聞かない、聞いてやらない。千種が私のためだ、なんて言うはずないけど、それでも聞いてなんかやらない。
「千種、まだ行かなくて平気なの?」 「そろそろ…かな」
行かないで。 いいよ、今日は二人でずっと家にいようよ。 なんて思ったりして。 駄目だ、やっぱり行かないで欲しい。 できるならずっとここにいて、ずっとこうしてくだらない会話をしていたい。 ずっとずっとずっと。 泣き喚いたら千種はここにいてくれるだろうか。 それでもやっぱり口から出てこない私の自己中心的な言葉は、紅茶と一緒にお腹の中へ。
箱の中へと千種の手がすらりと伸びてショートケーキを取り出して、そしてそのまま口に運んだ。 その姿がとても色気があって、瞬きを忘れてそれを見ていた。 私の心が食べられてるんじゃないだろうか。
ケーキになりたい、そんな風に思ったのは初めてだ。
それから冷めてしまった紅茶を飲み干して、「ごちそうさま」とだけ言って部屋を出て行った。 その瞬間肩の力が全部抜けて、大きく息を吐いた。 その時漸く、自分がずっと呼吸をしていなかったのだと気づいた。
千種がずっとケーキを食べてたらきっと私はずっと呼吸ができなくて、温暖化防止に貢献できるな。 なんて無駄なことを考えて、高鳴る心臓をごまかしていた。
無意識的に千種の真似をしてケーキを手づかみで食べてみる。 口をいくらあけてもあんなに綺麗には食べれなくて、それでも真似したくて、千種の心情が知りたくて、甘酸っぱい苺を口に含んだ。
「」
名前を呼ばれて振り返れば、準備万端な格好の千種。 いってらっしゃいって言うつもりで立ち上がったら、頬に手を添えられて、千種の親指が緩慢な動きで私の唇の端をなぞった。 胸がひとつ、とくんと鳴った。 今の私はきっと、物欲しそうな顔をしているんだろう。
「クリームついてる…」
「え、…あ、ありがとう」
「うん」
心臓が、痛い。 目の前はぐらぐらしてる。 何も考えられなくて脳が溶けてしまったかのよう。 それでいて、泣きそうだ。 この恥ずかしさがクリームを拭いてなかった自分に対するものか、それとも今の甘い雰囲気の所為なのか、キスされるとばかり思っていた自分への羞恥心なのか、わからずにまたどきどき。
「…鏡見てから外でなよ」
顔が赤いのを見られたくなくて、さっきの位置に戻って着席。必死に口元を拭いた。
「…ねぇ、毎朝こっち見てあんな顔するの、やめてよ」
「なっ…」
言い返す言葉なんて見つかってなかったけど、勢いよく立ち上がって振り向いてしまった私、思ったより近くにいた千種が後ろ髪に手を差し入れて、しまったと思った瞬間には唇が重なっていた。
「…いってきます」
「いってらっしゃい!」
千種をぎゅうぎゅう押して玄関から出すとドアに寄りかかりながら一気にへたり込んだ。 鏡見ろって警告はもしかしたら、クリームのことじゃなくて、キスされて赤くなる顔のことを警告して言ったんだ。 声にならない声が溢れて、今すぐ叫びだしたい。
朝のことはいつから知っていたんだろう。私は一体どんな顔をしていたんだろう。 恥ずかしい、そう思うのに嬉しさばかりがこみ上げてきて。 幸せだと思ってしまう。 甘い所為だ、絶対そうだ。 小さい子が泣くように顔を両手で塞ぐと、信じたくないけど、笑みが零れた。
残りのケーキをまずいと言いながら食べる真っ赤な私は想像しただけで笑いもの。
甘いのは、嫌いだ。幸せは自覚した時に自分の所から去っていくと聞いたから。
甘いのは、嫌いだ。こうやってまた一段と貴方しか見えなくなるから。
それでも、貴方がいるだけで甘くなってしまうのもこれまた事実。無念。
甘いものはお好き? (また、食べてあげてもいいよ?)
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